宇都宮 餃子ストーリー

「宇都宮餃子」を作った男GOKO監査役 沼尾博行

宇都宮餃子 誕生物語

今でこそ年間約80万人以上の方が餃子(ぎょうざ)を食べに宇都宮を訪れ
「食」による町おこしの代表例といわれる「宇都宮餃子」であるが
それが一人の男のひらめきと情熱から生み出されたことは意外に知られていない。

ロードサイクルイベントで宇都宮を盛りあげろ。

沼尾博行が宇都宮市の商業観光課に配属されたのは1989年(平成元年)4月。
時はバブルの真っ盛り。華やかな時代の流れとは裏腹に、宇都宮市ではその年の2月に大谷地区で大規模な陥没があり、観光面で大きな打撃を受けていた。

そのような時期に観光振興の担当である観光係長として配属された沼尾が最初に取り組んだのは、その大谷地区のイメージアップをどう図るかということであった。
沼尾は、大谷地区の安全性をアピールするため、全国から多くのサイクリングファンを大谷地区に集め、実際に大谷を自転車で走ってもらおうと考えた。
そのイベントは「宇都宮ロードサイクルフェスタ」と名付けられ、10月に開催することが決定した。準備期間は半年もない。コース設定のための現地調査、関係団体・関係機関との調整や打合せ、参加者募集のためのPR活動など、沼尾は目の回るような毎日を過ごしながら、必死で取り組んだ。
その結果、全国から700名以上の参加者が集まり、イベントは大成功を収めることとなる。
余談だが、現在では「宇都宮ロードサイクルフェスタ」は名を変え幅広いサイクルイベントとなっており、この成功が現在の「ジャパンカップサイクルロードレース」の誘致等による「サイクルシティ宇都宮」構想につながるのである。

餃子は宇都宮のソウルフードだ。

さて、「宇都宮ロードサイクルフェスタ」を無事に成功を収めた沼尾が次に考えたのは、「宇都宮ならではの名物料理をつくりたい」ということであった。
旅の大きな楽しみの1つに、その土地の郷土料理を味わうことがある。
宇都宮にも、「かんぴょう料理」や「しもつかれ」があるものの、「かんぴょう」は淡白でヘルシーだが、割烹や飲食店のメーン料理としては力不足。「しもつかれ」は、初めて食べる人には馴染みにくい。大谷地区の「キジ料理」や「鯉料理」、多気山の「芋串」も、観光客に喜ばれはしているものの、取扱店舗数も少なく、街をあげての名物料理としてはインパクトが弱すぎる。
そんなとき、1990年(平成2年)に市役所内で中堅職員を対象とした研修が開かれ、その発表会で「餃子を通しての町おこし」という提案がされた。
その提案を聞いた沼尾は、そのとき初めて、総理府の家計調査年報で宇都宮市が一世帯あたりの年間餃子消費額が日本一であることを知る。
またその提案の中で、市民200名を対象としたアンケート調査も発表されており、「餃子が好きか」の問いには93%が好きと答え、「月に何回食べるか」では「2回、3回以上」が合わせて61%にも上った。そして、「餃子を宇都宮の名物にすること」には、なんと72%の人が賛成であった。

自らも餃子が大好きで、またこの研修結果を活かすべしとの課の方針もあり、沼尾はさっそく動き出す。
このような仕掛けには、何といっても餃子店経営者の意識が大切である。行政側が、やる気でも相手がその気になってくれなければ、一時的なミニイベントで終わってしまう。今まで、そういう経験をいやというほど味わってきた沼尾は慎重な計画を立てた。

まずは「餃子マップ」の作成に着手した。これは、観光協会が発行している「目的別リーフレット」の1ジャンルとして位置づけ、予算を確保した。当時、餃子店だけの組合や団体などあるわけもなく、中華料理飲食店の協力と、自分達の足で情報を集めて作成した初めてのリーフレットが1991年(平成3年)10月に完成し、それを観光協会や宇都宮駅、さらには掲載された店舗などに配布した。
しかし、反応は鈍く、市役所内の職員ですら、まともに取り合ってくれない。市民からの「餃子で町づくりなんてダサい」という声も聞こえてきた。
しかし、沼尾がそれでも粘り強く店を回っていると、「変な市役所職員がいる」と少しづつ話題に上り、新聞やテレビでも取り上げられるうち、餃子屋の店主達の意識も変わってきたと感じた沼尾は、1993年(平成5年)に「宇都宮餃子会」発足のため餃子店へのアプローチを開始した。

キーマンになると思われる5人に話をし、まず準備会を発足させた。その5人に業者の意識調査を含めた情報収集を依頼したところ、反応はまずまずであった。そこで、会費を含めた規約の検討、ちらしの作成と進み、いよいよ会員募集の段階となった。
当初、15店くらいの加盟かと予想していたが、フタを開けてみると、驚くことに38店舗の加入となった。その発会式では事業計画が検討された。最初のイベントは、「ふるさと宮祭り」でスペースを借りて、「ギョッ!theフェスティバル」と銘をうった早食い大会となった。餃子は、すべて伊藤会長が無償提供を申し出た。スタッフは、オリジナルのTシャツを用意。賞品は、加盟店共通に使える食事券。記念にとビデオ班や写真班まで準備するという入れ込みようであった。その情熱のためか、イベントには、多くの観客の他に、本場中国の方々の参加もあり、大いに盛り上がった。

宇都宮餃子がテレビで放映され全国デビュー。

この成功に気をよくし、さらに広めていこうと張り切っていた沼尾のもとに、またとない話が舞い込む。
山田邦子の人気番組「おまかせ!山田商会」から企画が持ち込まれたのである。もともとは、市内の短大生が文化祭を盛り上げてほしいと番組宛に手紙を送ったのがきっかけだった。その打ち合わせのため商業観光課にやってきたテレビ東京のプロデューサへ、宇都宮餃子を全国にPRする絶好のチャンスと、沼尾は「宇都宮でいま一番のホットな話題は餃子だ」と熱く熱く語った。
その熱意が通じ、宇都宮の餃子を売るためのプロジェクトを組むという企画の番組が、7回連続放映で決定した。このプロジェクトは、市長にも承認を得て、市を挙げてのプロジェクトとなった。

しかし、市の予算はすでに決定しており、このプロジェクトへの予算があるわけがない。すべての企画を、ボランティアで担わなければならないという破天荒な話となった。
まず、「宇都宮の餃子を知ろうと」いう趣旨で、社長役の山田邦子自ら餃子店の食べ歩きを開始すると、行く先々で人の輪が出来る。彼女に歩いてもらっただけで大いにPRとなった。
前後して、番組のレギュラーである風見しんご、早坂好恵が宇都宮にやってくる。
風見氏は、アイドル探しにとりかかる。セレクトスポットには、北関東最大という「ディスコ・アレックス」が選ばれた。急な話でPRができなかった、と支配人はいうが、多くの若者が曲に合わせ踊り、熱気ムンムンの会場である。そこで3名の餃子PR嬢が決まる。ういういしいPR嬢「チャオズ」の誕生であった。
早坂嬢は、弁当づくりにかかりきりとなる。餃子店主で餃子会の事務局長を務めていた平塚氏と二人三脚で、冷めてもおいしい餃子づくりにチャレンジすることになった。
餃子は、焼きたてが美味いに決まっている。焼きたてを、フッフッと口に含んだときのゴマ油の香ばしさと、肉と野菜のバランスが何ともいえないのである。それを、冷めても美味しい餃子というのだから、作るのは並大抵ではない。沼尾も仕事が終わってから、深夜までその研究に付き合った。
テレビ局側関係者は、同時に餃子ソングとキャラクターの作成依頼に飛び回る。その結果、餃子ソングは三枝成彰が、キャラクターはソニークリエイティブが、両者とも無償での提供が決まった。
問題なのは、餃子像であった。どんな形にするのか。どこに置くのか。地元の大谷石をつかいたい。芸術的にも優れているものでなければならない。こんな難問を、当時、売出し中の西松鉱二氏が気持ちよく引き受けた。結果、ビーナスが餃子の皮をまとっているというデザインが届いた。
次に石の手配を行うため、大谷石材協同組合を訪ねる。石像を作成するためには3トンもの石塊が必要だが、その大きさの石を地下から切り出し、地上に運び上げるためには、通常使用しているジャッキがもつかどうか不安だったが、細谷石材組合長が無事にこの難問を解決した。
そして、この石像を作成する石工探しとなるが、無料でとなるとなかなかいない。沼尾は苦慮の末、小中学校で同級生の加藤石材店の加藤康雄に頼み込む。加藤氏は、3人の石工で1週間をかけ作業を行った。
そしていよいよ、餃子プロジェクトの最終段階である、おまかせ!山田商会の「宇都宮餃子フェスティバル」の開催となる。
山田邦子、渡嘉敷勝男、風見しんご、早坂好恵、餃子ソングの歌手としてウーロン茶のCMで有名になったジャン・シャオチン(姜小青)&マー・ピン(馬平)の出演が決まった。
場所は八幡山公園。しかし、傾斜のキツイ場所への、ステージの設営や音響機器の設置など、その作業は難航することが予想された。
その設営について、沼尾と風見しんごが市内のイベント運営会社である株式会社五光へ無料でと依頼に行く。木内社長は、宇都宮市への恩返しの一環として快諾する。
そして餃子会も、当日、宇都宮餃子のPRのためと、1人前100円で1000食の餃子を即売し、売上を山田商会に寄付することが決まった。

そして宇都宮餃子はうつのみや名物になった。

このテレビ番組の放映に触発されたかのように、他社の取材も申し込まれ、芸能人が宇都宮を訪ね、餃子店を食べ歩く様子がたびたび放映されることになる。
これらによって、「餃子の街・宇都宮」の認知度は一気に高まり、餃子を食べに全国から多くの人が宇都宮を訪れるようになる。
その後、1998年(平成10年)には宇都宮商工会議所が宇都宮餃子会と連携した実験店舗「おいしい餃子とふるさと餃子館:来らっせ」を開設した。また、1999年(平成11年)からは宇都宮餃子会主催の「宇都宮餃子まつり」が開催され、10万人以上を動員する宇都宮を代表するイベントとなった。
宇都宮の餃子は、沼尾が目指した観光に来た方を楽しませる食事というだけでなく、その味を楽しみに観光客を呼べるものとまでなったのである。

その後、沼尾は商工観光課を離れ、農林振興課長や地域振興課長、スポーツ振興課長を務めたが、各課で新たな試みに挑戦し、そのたびに結果を出し続けた。
そして、2007年(平成19年)3月に市役所を退職した今も、その情熱とアイデアで郷土の発展のための活動を続けている。

PROFILE沼尾 博行 (ぬまお ひろゆき)

1947年栃木県生まれ。玉川大学文学部卒業。
民間会社を経て、1972年宇都宮市役所入所。
教育委員会学校教育課、広報課を経て、89年に商業観光課観光係長となり「餃子のまちづくり」を仕掛ける。その後、ワールドカップ推進室長、農林振興課長、地域振興課長、スポーツ振興課長、商工部長、株式会社ろまんちっく村社長などを歴任。2007年3月末に退職。その後、株式会社五光監査役として各種イベント等の企画立案に携わりながら、「食による町おこし」をテーマに各地での講演活動を行っている。2022年1月退任。